富山県南米協会

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活動報告

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活動報告

2015年 富山県南米親善訪問団

2015年富山県南米親善訪問団(団長杉本正県議はじめ総勢34名)は、10月にブラジル富山県人会創立55周年及び富山県・サンパウロ州友好提携30周年を祝う記念行事に参加し、併せて在アルゼンチン富山県人会及びペルー富山県人会を訪問して、各地で歓迎を受けて交流会などを通して交歓した。

富山からサンパウロへ

YKK訪問 YKK訪問

 訪問団は、10月1日(木曜)に富山空港で出発壮行式の後、午前8:25に富山空港を出発し、夕方成田からのデルタ航空便で、日付変更線を越え12時間半で経由地の米国アトランタに。乗継ぎ後、さらに約10時間の飛行で2日(金曜)朝6時にサンパウロ(聖市)に到着した。早朝にもかかわらず国際空港には、市川利雄会長、松本忍さんら県人会の皆さんの出迎えを受けた。早速、アリアンサ訪問用の軽量バッグとサンパウロに預け置く荷物に仕分ける。そして、第1日目は、2台のバスに分かれて別行動。議会、行政関係者等からなる「公式団」はYKKブラジル社を視察するためソロカバ市に向かい、同社の活動について説明を受けるとともに工場見学を行った。その他の「一般団」は独立記念碑など主に市内見学からスタートする。郊外に向かう道路に沿って右側は渋滞解消のため五輪開催までに建設を急ぐ鉄道工事中、左側には川幅100mほどの内陸に向かう川が並行し、その川に市街地から流入する中小河川には下水が未整備なため、白い泡が綿菓子を敷き詰めたよう。

アリアンサ訪問

アラサツーバへ

  2日(金曜)夕方、聖市中心部から約600㎞離れた内陸にあるアリアンサ(富山村)への翌日の訪問に控えるため、その日のうちに最も近接するアラサツーバに空路向かう。
 ところが、聖市郊外のカンピナス空港で全員が合流し、搭乗ゲートから搭乗予定のプロペラ機に向かったバスが、プロペラ機の機材の照明が不完全なため、空港ビルに引き返す。結局、約3時間遅れて、21時過ぎようやくアラサツーバ空港に着く。事前に遅れを連絡したところ、到着日の行事中止にもかかわらず、空港では、県人会のミランドポリス支部やアリアンサの役員、谷英志派遣教員らが、出迎えてくださり、却って驚き感激した。
 22時にホテルに到着、睡眠不足と遅い夕食のため、初日の自己紹介機会の余裕もなく、ともかく、約48時間ぶりにベッドにたどりつき、最初の宿泊で爆睡する。

県人が開拓した第3アリアンサ訪問
日本語学校で説明を受ける日本語学校で説明を受ける

  翌3日(土曜)気温25度、朝から雨模様の中をバスで第3アリアンサに向かう。季節は春なのに前日の気温は37度に達していたという。途中、街道沿いの景色は、放牧地にも緑色が多くなり、(前回2010年訪問は冬のため草が黄色く枯れた乾燥地)ゆるやかな起伏の低地には樹木が帯状に濃い緑で茂っている。
 村の入り口のゴム園から、日程では、開拓時の指導者松沢謙二先生の墓参りの予定を、出迎えの村人のアドバイスで、道がぬかるんでいるので中止し、村の中心部の集会所前にバスが着いた。団員はすぐ前の松沢先生の菩提寺に案内され、林時彦参与が読経される中、全員が線香をあげた。
 その後、県から谷英志先生が派遣されている日本語学校を視察し、生徒3人の発表を聞き、谷先生から映像で日頃の学習の様子をみせてもらった。

(註 第3アリアンサ移住の経緯)
この地は、第1移住地(長野)、第2移住地(鳥取、長野)、に次ぐ第3移住地(富山、長野)として、1927年(昭和2年)に富山海外協会(3250町歩)と信濃海外協会(3000町歩)が土地を確保した。そして富山移住地開拓のため、富山移民協会を設立し、福野農学校教諭松沢謙二氏を幹事に任命し、松沢氏ら先発隊4家族11名は、同年8月11日現地に到着し、コトベロ川の河畔にテント2基を張り開拓に着手した。以後、本格的に入植が始まる。1934年時点では、富山関係89家族、470名、また信濃関係84家族、315名の記録がある。
戦争直前1941年まで、本県からは141家族、531名が入植した。しかし、日本の敗戦により、帰国を諦めブラジルでの永住を決意した移住者家族は、同国に融合し、かつ社会階層、地位の向上を図る道を選択する。そして、子どもらに高等教育を受けさせるため都会に移り住む家族が多数を占めた。

開拓時の写真 開拓時の写真
コーヒーの苗木植付 コーヒーの苗木植付

歓迎交流会

  そして、訪問団は、第3アリアンサ(富山村)集会所において住民の皆さんとの歓迎交流会に臨んだ。嶋崎清日伯文化体育協会長や西田一郎県人会支部長らから、歓迎のことばの中には、これまで日本語学校に派遣された19人の教員が果たしてきた功績に対する深い感謝が表明され、さらに今後の派遣継続の熱い要望が伝えられた。
 この席には、高岡市と姉妹提携しているミランドポリス市のフランシスコ市長及び議員も来賓として同席された。
 交流会では、地元の皆さんが、総出で訪問団歓迎のために早朝から各家庭から持ち寄り準備された素晴らしい手作りのごちそうをいただき、懇談・交歓することができた。隣接の体育館では肉塊が焼かれ、巻き寿司からケーキまで揃った料理は、ホテルよりもおいしく、村の皆さんには、感謝感激した。
 そして、昼ごろ、アリアンサの皆さんとの別れを惜しみながら聖市への帰路につく。往路に利用したアラサツーバ空港には土曜日の適切な便が無いので、遠方だがジェット便のある空港までバスで3時間を要した。
 バス内では、同行された市川県人会長の地理案内があった。丘陵上(標高800m)の聖市内から流れ出る川は、近くの海岸(サントス港まで約40㎞)に向かわず標高の低い内陸(例アリアンサの標高300m)に流れ、(方向転換して)大陸を縦断するパラナ川に合流する。やがて標高200m地点にある三国々境のイグアス滝(その落差を活かすイタイプー発電所の巨大な水力発電量はブラジルの電力の大部分を賄う。)を経て、その下流は、大河ラプラタ川となってアルゼンチンの首都ブエノスアイレスで川幅40㎞の大きな河口が大西洋に注ぐ。

ブラジル富山県人会創立55周年行事

富山県から目録贈呈 富山県から目録贈呈
記念式典等

  翌4日(日曜)には、聖市内でブラジル富山県人会創立55周年の式典及び記念行事が400人余の出席のもと(宮城県人会館において)盛大に開催された。
 市川利雄県人会長の式辞の中では、これまでの富山県からの支援並びに留学生・海外技術研修員の受入れ等に対する感謝が表明された。一方、富山県からは知事代理の荒木勝公営企業管理者(副団長)が石井知事からのお祝いのメッセージを代読し、五十嵐務副議長(副団長)が横山県議会議長の祝辞を代読した。
 式典では、来賓の中前隆博在聖総領事を、イイホシ連邦議員、 羽藤ジョージ州議員やブラジル日本文化福祉協会(初の女性会長)の 呉屋春美(77年研修員の新城真利枝さん実姉)氏の祝辞にも、富山県の交流事業に対する高い評価が印象的であった。
 そして荒川サントス・ロブソン君(13年留学生)ら県費留学生のOB及びサンパウロ大学(USP)奨学制度の担当教授と奨学生から県への謝辞があった。
 また、県から部門功労に根塚弘前県人会長が授与されたのをはじめ、移住者や縁故者のうち功労者や高齢者が表彰された。一方、ブラジル県人会から富山県、県議会、北日本新聞社、河合常則南米協会会長及び北日本民謡舞踊連合会の竹氏修さん(民謡名人位、民謡舞踊チーム代表)がこれまで果たした交流への貢献に関し表彰された。さらに、県州友好提携に寄与された羽藤ジョージ、マリオ聖州議員兄弟も受賞した。
 55周年祝賀会のアトラクションでは、民謡舞踊チームの6人が富山の郷土民謡を披露し、移住関係者に伝統文化を届けた。最後に有名なサンバ(踊り子3人と伴奏)チームが陽気な演奏で愛嬌を振りまくなど参加者を楽しませた。

式典を支える人々

  同県人会の近年の行事には、かつて県費留学生・海外技術研修員として富山県に滞在した経験のある(立山フレンド会)メンバーが中心的な役割を担うようになり、活躍している姿がみられた。総合司会に吉田マルセロゆうじ君(11年留学生)が加わった。受付では事務局の坂野智子さんと大戸利雄さんが地道にお世話をされていた。
 多数の参加者の中には、元県人会長の市川良一、茶木勲さんらの姿もあった。
 県人会副会長の前田進(コチア青年連絡協議協会会長)さんも夫人同伴で、歯科医で娘のまゆみさん家族らと共に会場に姿を見せておられた。前田さんは、その2週間前(9月20日)の「コチア青年移住60周年記念式典」の主催及び約1か月前(8月28日)に首都ブラジリアにおいて連邦議会による「コチア青年の社会貢献を讃える慶祝式典」の主賓を終えられ、大任を果たしホッとした表情であった。

(註 コチア青年移住)
1955年から日伯両国の農業協同組合の提携により、戦前、サンパウロ市郊外のコチア町のじゃがいも栽培の日本人農家等によって組織されたコチア産業組合が、12年間に日本の農業青年2500余名を受入れ、4年間の労務契約終了後に各地に独立定住させた。続く「花嫁移住」は、これら独立青年のための日本からの呼び寄せ結婚で、独立青年の36%が、伴侶を確保した。

立山フレンド会との対話交流

  記念行事後の立山フレンド会(留学生・研修員のOB会)との対話では、龍田エヴェリンさん(09年留学生)が進行役を務め、3人が近況と感謝を述べた。いずれも、富山で学んだ成果を活かし、職と信用を得て現地で活躍している旨が報告された。
 その後、平松オスカル夫妻や松本綱雄(UNESP)准教授らも加わり立山フレンド会のメンバーと交流会を行った。

富山県・サンパウロ州友好提携30周年の記念行事

サンパウロ大学 日本文化研究所の皆さんと サンパウロ大学 日本文化研究所の皆さんと

 訪問団は、5日(月曜)には、サンパウロ州政府の社会発展局庁舎において、県州友好提携30周年の記念行事に参加した。公式団は、ペザーロ・フロリアーノ長官を表敬し、これまでの両県州間の交流や今後の取り組みについて意見交換した。その後、ホールにおいて記念セレモニーが行われ、荒木公営企業管理者とペザーロ長官との間で、交流推進の確認書が取り交わされた。そして、竹氏修さんら民謡舞踊チーム6人が、会場の一般客と州政府職員ら約120人の前で郷土民謡を披露し、喝采を浴びた。なお、県人会の新城真利枝さんらが現場において会場設営に配慮してくださった。
 州政府訪問に先立ち、公式団は、在サンパウロ日本国領事館に中前隆博総領事を表敬訪問し、「ブラジルで人口の1%に満たない日系人が、たいへん尊敬され、日本の存在感を高めている。」旨の話があった。また、サンパウロ大学(USP)の日本文化研究所を訪れ、県の奨学金を得て学んでいる学生らと意見交換した。
 翌日はサンパウロ市を離れるので、夕方、訪問団は県人会役員の皆さんとの晩餐会を滞在ホテル内レストランで開いた。サンパウロでの公式行事を成功裡に終えることができたことで、双方のメンバーは緊張から解放された穏やかな表情であった。
 懐かしい子どもの頃を想い出しながら皆で唄った日本の唱歌「ふるさと」には、杉本団長が振付けをされ、歌詞にあわせて各自身体を動かし、和気あいあいの楽しい夜で別れを惜しんだ。

リオの県人会支部との交流

 6日(火曜)には、リオ・デ・ジャネイロを訪れた。南米初の2016年五輪大会まで残り1年を切っているというのに、街中で工事に従事する労働者の動きは何となくゆっくりとしているように見えた。既に完成した美しい巨大な陸上競技場の館内を観客席まで入ってみたところ、高校生ら若い男女が軽い練習に汗を流していた。
 有名なポン・デ・アスーカル(砂糖のパン)から市内の景観を眺め、登山電車でキリスト像の丘に登る。ここでも、前日豪雨に見舞われたらしいが、一転好天に恵まれる。
 コパカバーナ海岸のホテルに着き、夕方は、県人会リオ・デ・ジャネイロ支部の皆さんとの交流会を行う。伊藤嘉章支部長さん(夫人が井波出身)から会員が紹介され、小出幸子さん(上市)、元丸紅の山田邦右さん(八尾)のほか、空港に出迎えされた田中貢さん(氷見)を筆頭にかつて現地のIHI(石川島播磨)関連の勤務された本県関係家族が多い。交流会のレストラン内では、芸能等が禁止されていたので、終了後に、山田さんの出身に因み、民謡舞踊チームが海岸で即興のおわら節を披露した。

世界遺産イグアス

 アルゼンチンへの途中、7日(水曜)、世界遺産イグアスに立ち寄る。ここは標高約200mで河口までは、さらに飛行機で2時間を要する。ブラジル側では河の右岸を約2㎞遡り、悪魔の喉笛と呼ばれる最大流量の絶景を見上げる。滝のしぶきが強く、滝坪に近づくゴムボートに乗ると観客は、滝を浴びて悲鳴に似た歓声をあげる。
 翌日、8日(木曜)、アルゼンチン側にバスに乗車したままで国境越えの入国審査に1時間余り待機を経て、ようやく左岸からトロッコ電車で滝に向かい、さらに片道約2㎞を歩いて落下する悪魔の喉笛を上から眺める。滝周辺は、原生林に囲まれた生物の宝庫で、訪問団の大部分は初めてのジャングルを経験する。公園内ではアライグマが観光客の周囲を歩き回り、ここでも好天に恵まれ陽射しで日焼けする。

アルゼンチンを訪問

福島(ふくしま)駐アルゼンチン大使と 福島(ふくしま)駐アルゼンチン大使と

 その日のうちに空路ブエノスアイレスに到着する。空港ビルの前に広がる水面は、私たちには海と思われたが、実はイグアス滝から流下したラプラタ川の河口であり、河幅が約40㎞あるので対岸は見えない。
 翌日、9日(金曜)は、在亜県人会との交流会までの時間をアルゼンチンの首都の市内見学に出かける。市街地は、スペイン語圏だけに南ヨーロッパ風の景観が見られ、古風な建物にはバルコニーが付いている。20世紀後半には、世界でも有数の農業国として高い国民所得を誇った恵まれた国であった。劇団四季の演目で有名な、貧しさから身を起こして大統領夫人になったエビータの生涯が伝説的に語り継がれている。
 日本からのアルゼンチン移住は、集団でなく個人単位が多く、戦前もペルー等から逃避した移住者がビザなしで南北に長いチリ経由の徒歩で到着した例もある。
 公式団は、在アルゼンチン日本国大使館に表敬訪問し、福嶌(ふくしま)教輝大使から「経済が不安視されているが国民生活は安定している。日系人や日本企業は信頼を得ている。」旨、話があった。

(註 親日国アルゼンチン)
アルゼンチンは、古くから親日国として知られ、日露戦争の直前にジェノバ(伊)で建造中だった装甲巡洋艦2隻を日本に譲渡し、即金払い条件を緩和し手形で承認してくれた恩がある。
完成後、日本に回航する際は艦籍を英国とし、スエズ運河まで追跡してきた露艦隊を英国が引離しバルト海に戻した。これが「日進」、「春日」で、(費用は国家予算の1割)開戦1週間後に横須賀に到着し、日本海海戦で活躍した。

在亜富山県人会と交流

 夕方、在アルゼンチン富山県人会の川滝幾郎会長らの歓迎を受け、交流会に参加した。あいさつと記念品交換の後、訪問団の民謡舞踊チームが郷土民謡を披露し、故郷の文化の香りを届ける。そして、現地の有名なプロによるタンゴの実演を鑑賞しつつ、ステーキとワインの味覚を楽しむ。欧州のコンクールで金賞を受賞したワインとして、県人会から村藤修副会長が紹介のうえ、贈呈されたワインは宝物である。
 森山さん一家がネウケン州から1500㎞の長距離にもかかわらず車を駆使して参加され、森山マリエラさん(11研修員)が高岡で学んだ手作りの和菓子も全員に提供された。たくさんの留学生・研修員OBらも集合されて賑やかに懇談できた。
 翌10日(土曜)早朝、訪問団の本隊は、ペルーに向け出発。一方、ここで短期コースの荒木副団長、島副団長や民謡舞踊チームら計9名と添乗員1名は、郊外の牧場等を視察した後、帰国の途についた。アルゼンチンコースを選択した3人は、そのまましばらく滞在した。

ペルーを訪問

アンデスの都市クスコとインカ文明

  ペルーでは、リマ空港からそのままクスコ(標高3400m)に向かい、バスで途中の標高が富士山頂と同じ峠を越え、夕方、ウルバンバに到着。
 翌日、11日(日曜)は、オリエント急行の展望列車で天空都市マチュピチュ遺跡(標高2800m)へ、直下の列車駅から遺跡まで標高差400mを結ぶシャトルバスは、26台がフル稼働。それでも長蛇の列に往路60分、帰路90分並ぶ。帰路の待ち時間に腕や指をゴマ粒大の虫に刺された。毎年、200万人の観光客から45ドルの観覧料を徴し維持費に充てられる。同遺跡内のワイナピチュ(若い峰)は1日の登山者200人に制限されている。

(註 越中漂流民とマチュピチュ発見者)
マチュピチュ遺跡は、1911年に冒険家ハイラム・ビンガムⅢ世(米)により発見された。彼は、ハリウッド映画のインディ・ジョーンズのモデルと言われ、有名になった。その発見者の祖父(同名Ⅰ世、在ホノルル)に、幕末の1839年、ハワイに上陸して約1年間の滞在後に帰国した越中岩瀬の北前船「長者丸」の漂流民次郎吉ら7人が世話になっていたという奇縁がある。(「蕃談」東洋文庫39、原文では、「ベイナン牧師」と表記される。上陸後に病死した船頭平四郎は、ベイナン牧師の3人の子どもの墓(イオラニ宮殿横)の隣に埋葬された。(当時ハワイ諸島は、発見したサンドイッチ伯爵の船にちなみ同伯爵名で呼ばれた。)「サンイチのワホー(オアフ島)」)

 クスコの街は、サントドミンゴ教会はじめ街小路の12角の石や郊外サクサイワマン遺跡にも精巧な石組みが残る。まさに隙間がなく接合面にカミソリの刃さえ入らない驚異の技術である。
 多種類のジャガイモは勿論のこと、比較的に乾燥地を好むトウモロコシ、トマトなども中南米の山岳地帯が原産地であろう。後年、コロンブスの新大陸発見後、欧州に持ち込まれ普及したジャガイモは、北欧の飢饉を救い、逆に南欧からチリに持ち込まれたブドウの木が病気による欧州葡萄の絶滅とワイン文化を守った。

首都リマでペルー富山県人会と交流
ペルー富山県人会との交流会 ペルー富山県人会との交流会

  訪問団の短期コース(民謡舞踊チームら訪問団9名がすでに帰国)を除く団員は、南米での最終日にあたる13日(火曜)に、各コースからリマに集合した。
 午後の交流会に向かうバスの中から周囲を観察すると、多くの日本車が見られる。車種は、トヨタからスズキまで各メーカーが揃っているが、その大部分は中古で輸入されたものである。日系人のフジモリ元大統領を輩出した国である。
 公式団は、在ペルー日本国大使館に株丹達也大使を表敬訪問し、石井知事と総務省で共に仕事をされたという同大使からペルーの政治経済情勢について聞き、懇談した。
 午後から、リマにある中心的な日系施設の日秘会館においてペルー富山県人会との交流昼食会に臨んだ。高野ファウスト会長の次女ジェシカさんが司会し、長女のドリスさんも参加、会長の兄弟高野モロン氏も元気な姿を見せておられた。同県人会は、県人移住者が少数になっているのにかかわらず、心のこもった歓待に訪問団の全員が感銘を受け感謝した。
 午後、プレ(前)インカ文明を紹介するラファエロ・ラルコ・エレラ博物館を見学した。原住民インディオには、日本人と同様に乳幼児期に尻が青く文化でも共通する点が見られる。展示品に日本語の説明が(JICAの協力で)併記されていた。

ペルーと日本移民

 ペルー契約移民は、雇用側の悪意と大戦中の米収容所送致などで最も辛酸をなめたと聞く。多くは周辺国に逃散し、アマゾン下りやチリ経由でペルー入国例もある。
 今回はクスコの街や田舎でも各地で「Keiko」の看板が見られた。元大統領の長女ケイコ・フジモリ(日系3世)の名前で2016年4月大統領選の有力候補である。

(註 元大統領)
父のアルベルト・フジモリ元大統領は、「任期中は毎日一つの学校を建てる」と公約し、実績では10年間の在任期間に4000校を達成して日本人の信用を高めた。
96年の在ペルー日本国大使公邸占拠事件は、その解放場面がテレビで実況中継されたので、記憶に残っている。

 リマの海岸に「恋人たちの岬」があり、沖に日本風土の代名詞、孤島ガラパゴスがあり、さらに遙かエルニーニョ(平年より2.7度高温)発生の海が続く。リマは南極からの寒流のため霧の街であり、近海は、世界4大漁場で飼料用魚粉の供給地である。
 現地での最後の食事は、リマの夜景の中、有名な海の上のレストランで、ゆりかごの如き波音を聞きながらゆっくり楽しむことができた。
 訪問団は、南米訪問の全ての日程を終え初期の目的を果たし、10月15日(木曜)までに全員無事に帰国した。

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